
[積丹半島神威岬観光タクシー]札幌小樽観光タクシーの[積丹半島神威岬ウオーキングです。]
ランチの後は、積丹半島神威岬でウォーキングです。
神威岬灯台、神威岩までは、往復徒歩40分~50分です。
天気も良くこの時期珍しく暖かく風も無く楽しいウォーキングになりました。🚶😃✌



積丹半島神威岬
岬の突端、海の中に立っていますのが、積丹半島のシンボルカムイ岩です。
えぞ地海路に お神威なくば
ついて行きたや 場所までも
うらみますぞえ お神威さまは
なぜに 女の足止める
と、うたわれたカムイ岩です。
神威岬には、神威岩のほか、念仏トンネル・メノコ岩・水無の立岩・ノナマエ洞窟・サメの泳ぐのが見えるというサメ穴など、沢山の見どころがあります。
中でも念仏トンネルは、両サイドから掘り始めた穴が、途中でくいちがったためにまがっていて、真ん中あたりは真っ暗で、手探りで歩かなければならず、スリルと楽しさを、一度に味わえるところです。(現在は、落石の危険が有る為、通行できません。)
また、神威岬先端には、北海道で2番目に点灯した、神威岬無人灯台が立っています。
神威岬灯台は、平成15年9月に、一般公開され、話題になりました。
建てられてから43年を経過しており、老朽化が進んでいたので、灯台の主塔部を強化プラスチックで包み補強するなど、改修工事が終了しました。
神威岬には年間、約37万人の観光客が訪れる観光名所です。
そこで灯台の出入り口や灯光を発する部屋を大きくし、見学が出来る様にしました。
以来、毎日の見学は出来ませんが、灯台の定期点検に合わせて一般公開をするそうです。
神威岬の婦女通行の禁
神威岬付近は、天候の良い日でも波の高い事が多く、むかしは、少し荒れだすと、小さな船ではなかなか通ることができなかった難所で、蝦夷三険岬(茂津多岬・神威岬・雄冬岬)の1つに数えられていたところです。
松前藩時代には、この岬から北へは、女性が行くことを認めておりませんでした。
それは松前藩ではこの岬から北は、和人の定住を禁じていて、そこに女性が入るということは、定住を意味したからでした。
和人が、交通の不便な奥地に、どんどん入るようになっては、藩の力で、とても取り締まることができなくなるからです。
したがって、奥地に入るのは、ニシン漁へ行く男だけに限られていて、恋しいい人との別れを惜しむ、妻や恋人の思いが、「恨みますぞえ、お神威さまは、なぜに女の足止める」「忍路高島およびもないが、せめて歌棄磯谷まで」と、追分節にも歌われています。
この女人禁制の掟が解かれたのは、安政3年(1856年)、蝦夷地を幕府が直接治めるようになった翌年のことです。
宗谷へ赴任するお役人、梨本弥五郎が、初めて妻子を連れて、この岬を通過しております。


積丹神威岩の伝説、積丹神威岬にまつわる悲しい恋の伝説です。
兄頼朝の追手をのがれて、蝦夷地にわたった義経は、日高のアイヌコタンに滞在し、いつしかコタンの娘、チャレンカと恋仲になりました。
しかし、大きな望みをいだく義経のこと、別れも告げず、ひそかに旅立ってしまったのです。
これを知って驚いたチャレンカは、あとを追って、ようやく積丹神威岬まで来ましたが、ときすでに遅く、義経一行は帆をあげて船出したあとでした。
チャレンカは遠ざかる船に、声の限り叫び続けましたが、むなしく波の音に打ち消されるばかり・・・。
ついに悲しみと恨みを残して、崖の上から身をおどらせてしまい、積丹神威岩になったといい、それ以来、和人の船が、女性を乗せてこの岬を通ろうと、暴風雨がおこり、船の進むのを邪魔しますので、これはアイヌ娘の恨みと呪いによるものだろうと、語り伝えられています。
積丹神威岩の伝説をご紹介しましたが、これは、和人の奥地定住をきらった松前藩が、女人禁制の政策を進めるために作った物語だろうと言われております。





積丹町の歴史
行政の中心である旧美国町は昭和31年9月、近隣の入舸村と余別村が合併して積丹町を名乗る様になりました。
この町の町章を見ますと三羽のカモメで描かれており、美国・入舸・余別が一つの町に統合された事を表しております。
積丹とはアイヌ語で「シャクコタン」夏の村・集落の事です。その言葉の通り今から4千年ほど前、縄文人そして後にはアイヌ人がこの辺りの海岸線に、夏の集落を作り居住した事からこの地名が生まれた様です。
この町に和人の歴史が始まったのは今から350年前の慶長年間で松前藩の領地となり、宝永3年(1706年)には美国場所と積丹場所の両場所が設けられました。
美国場所(現在の美国)は松前藩・近藤家が、積丹場所(現在の日司)は松前藩・藤倉家が代々知行主で、漁場所はもともと、知行主に代わって場所請負人が治めていました。
中でも積丹場所請負人、岩田金蔵は安永5年(1775年)から明治まで、長期に亘って代々場所請負人を務めてきた方で、後には美国場所も治める様になりました。
明治に入って請負制度は廃止され明治35年には美国町となり、39年には余別・入舸に村制が施行されるなど、早い内から多くの人々が日本海に面した積丹の漁場に定住していた事が伺われます。特に明治から大正時代にかけてニシン漁場として栄えた所で、鰊が群来る時、海面は銀色に染まり、ニシンを追ってやって来る大勢の「ヤン衆」達で漁場は一層活気づいたともうします。
ヤン衆達がニシン漁場で作業歌としたのがあの有名な「ソーラン節」で、北海道を代表する民謡として今も歌い継がれております。「ソーラン節の発祥の地は我が町」と名乗り出ているのが、隣り町の余市町と積丹町の両町で、本家争いとまでは至っておりませんが、それぞれ、記念碑を建てて地盤固めをしているようです。
大字沼前町
平成13年に使用開始となった沼前駐車場の広場には、24時間使用可能な水洗トイレと積丹の碑があります。
積丹の碑の碑面には「ソーラン節のふる里積丹」、背面には「一般国道229号平成8年11月1日開通」と記されています。
碑文は
「鰊全盛の時代からソーラン節と共に
歩み続けた町。
移り変わる時の中、
今も変わらぬ積丹の海がここにある」
駐車場の面積は4933㎡で、大型車両を含めて53台が駐車出来ます。
水洗トイレは大8、小3、身障者用1あり、24時間使用可能です。









此方は、さいのかわら方面です。🚕

