
[積丹町観光タクシー]札幌小樽観光タクシーの[積丹町美国観光案内]
積丹町の中心美国、「美しい国」と書いてビクニと言います。
ここもまた、余市町・古平町とともに、慶長年間(1596~1615年)から大正末期まで、ニシン漁で賑わったところです。
今は文字通り、「美しい国」積丹の自然を売る観光の町に変身し、近海漁業・酪農・肉牛飼育なども行われています。
この美国の漁港には、育てる漁業の一環としてつくられた「水産種苗生産センター」があります。ウニの赤ちゃんを、直径15㎜以上になるまで育て、放流する仕事をしています。
ウニの赤ちゃんのエサとして、この辺りの何処にでも生えているオオイタドリの葉を使っていますが、コンブなどの海藻よりも、成長が早いと言う事です。
積丹半島の地名、積丹半島の積丹と言う地名の由来をご紹介します。
積丹の字は、なかなか読みにくく、セキタン半島と読む方もいるようです。
これはアイヌ語の「サクコタン」(夏の村)あるいは(夏の集落)からきています。
アイヌの人達は狩猟民族で、夏は海岸や川辺・湖のほとりに集落をつくり、海や川の幸をとって食糧をたくわえました。
魚介類の豊富なこの辺りの海岸は、アイヌの人達にとって最高の場所だった訳です。
そして冬になると、クマや鹿などの多い所に移動しました。
此を「冬の村」(マタコタン)と呼びます。
この様に季節ごとに移動する生活をしていましたので、アイヌのコタンは、余り大きくなく、5~6軒から多くても20~30軒の集まりだったそうです。





積丹町の歴史
行政の中心である旧美国町は昭和31年9月、近隣の入舸村と余別村が合併して積丹町を名乗る様になりました。
この町の町章を見ますと三羽のカモメで描かれており、美国・入舸・余別が一つの町に統合された事を表しております。
積丹とはアイヌ語で「シャクコタン」夏の村・集落の事です。その言葉の通り今から4千年ほど前、縄文人そして後にはアイヌ人がこの辺りの海岸線に、夏の集落を作り居住した事からこの地名が生まれた様です。
この町に和人の歴史が始まったのは今から350年前の慶長年間で松前藩の領地となり、宝永3年(1706年)には美国場所と積丹場所の両場所が設けられました。
美国場所(現在の美国)は松前藩・近藤家が、積丹場所(現在の日司)は松前藩・藤倉家が代々知行主で、漁場所はもともと、知行主に代わって場所請負人が治めていました。
中でも積丹場所請負人、岩田金蔵は安永5年(1775年)から明治まで、長期に亘って代々場所請負人を務めてきた方で、後には美国場所も治める様になりました。
明治に入って請負制度は廃止され明治35年には美国町となり、39年には余別・入舸に村制が施行されるなど、早い内から多くの人々が日本海に面した積丹の漁場に定住していた事が伺われます。特に明治から大正時代にかけてニシン漁場として栄えた所で、鰊が群来る時、海面は銀色に染まり、ニシンを追ってやって来る大勢の「ヤン衆」達で漁場は一層活気づいたともうします。
ヤン衆達がニシン漁場で作業歌としたのがあの有名な「ソーラン節」で、北海道を代表する民謡として今も歌い継がれております。「ソーラン節の発祥の地は我が町」と名乗り出ているのが、隣り町の余市町と積丹町の両町で、本家争いとまでは至っておりませんが、それぞれ、記念碑を建てて地盤固めをしているようです。


