ホーム » ブログ » 神威岩です。【積丹半島での送迎観光貸切チャータータクシー】

神威岩です。【積丹半島での送迎観光貸切チャータータクシー】

神威岩です。【積丹半島での送迎観光貸切チャータータクシー】

積丹町・神威岩です。【北海道TAXIトラベル(株)】

神威岩の伝説①

神威岩は幾つかの伝説が有りますが、その一つ

昔々、一人の海を守る神様が居られました。

その神様は、一年中海を守っていたそうです。

ある冬の寒い寒い日に、海を泳いでいたそうじゃ。

泳いでいるうちに余りの寒さで身体の自由を失って終うた。

なんと、そのまま岩になってしまったと言う事です。

その岩を人々は『神威岩』と呼ぶようになったそうです。

神威岩の伝説②

源九郎判官義経は平家追討軍の大将として大いに活躍し、京都に意気揚々と凱旋したのですが、鎌倉にいる兄頼朝の誤解を受けてしまったのです。

その後、頼朝の追っ手を逃れ義経を慕う家来とともに奥州藤原家に身を寄せました。

しかし、不運な事に父とも慕う「秀衡」の死によって、その子・泰衡の襲撃を受け、世に言う「衣川の戦い」で自害したと思われていた義経は、密かに平泉を数人の家来と共に抜け出し、津軽の荒波を越えて蝦夷地へ逃れたというのです。

さて、この義経、その後、爾志郡乙部の和人・松林勘右衛門宅に逗留し、更に北上して日高平取のアイヌの村長宅にしばらく留まっておりました。

この時村長の娘・チャレンカは武将姿の凛々しい義経にすっかり心を奪われてしまいました。

しかし、義経の胸中にある「武将として再興したい」という思いを遂げるため、こっそりとコタンを出て日本海を目指し、ようやく辿り着いた岩内の雷電海岸で、屯営し、食料や船を整えて神威岬の沖合を通行して北へ向かったのです。

その時、一転空は搔き曇り、船は前進することが出来なくなりました。

しかし、義経は少しも慌てず、岬に立つ人の形を思わせる岩に近づき、神と称えお神酒を上げ、海の神に一心不乱に会場の安全を祈願したところ、何事も無かったかのように風は治まり、再び北へと向かう事が出来た、とあります。

一方チャレンカは恋しい義経を忘れる事が出来ずに、悶々とした日々を送る毎日でした。

ある日、義経の後を追って神威岬まで来たところ、既に義経主従は遥か遠くの海上へと姿を消していたのです。

かすかに見える義経を乗せた船に向かって呼べど叫べどチャレンカの声は届かず、波の音や風の音が哀れチャレンカのすすり泣きに呼応して聞こえて来るのです。

「恋しい義経さまー、お戻り下さーい、義経さまー、義経さー」最後には声にならず、何時しかチャレンカは我を失い、死の間際に「和人(ムサシ)の船、女を乗せてこの岬を過ぎようものなら、すなわち転覆せん」と言い残し、神威岬の断崖から海中へ身を投じてしまいました。

何と此れを見た海の神が哀れな乙女の心を思い、岩に化身させたのでしょうか。

それがあの神威岩なのです。

『海原の 沖を見つめて立ついわに

伝わる恋の 情念の影』 詩人・紫陽花

以来、チャレンカの残した恨みの言葉は数百年に亘って女を通さぬ岬となり、岬より北は女人の立ち入りが禁じられる事となってしまいました。

『恨みますぞえ お神威さまよ

なぜに女の足とめる』

積丹半島神威岬

積丹神威岩のほか、積丹念仏トンネル、積丹メノコ岩、積丹水無しの立岩、積丹ノナマエ洞窟、積丹サメの泳ぐのが見えるというサメ穴など、たくさんの見どころがあります。

中でも念仏トンネルは、両サイドから掘り始めた穴が、途中で食い違ったためにまがっていて、真ん中辺りは真っ暗で、手探りで歩かなければならず、スリルと楽しさを、一度に味わえる所でしたが、現在は落石など危険な為通行止めになっています。

また、先端には明治21年(北海道で2番目)に建てられた、神威岬灯台が立っています。

神威岬の婦女通行の禁、神威岬付近は、天気の良い日でも波の高いことが多く、むかしは、少し荒れだすと、小さな船ではなかなか通る事が出来なかった難所で、蝦夷三険岬(茂津多、神威、雄冬)の1つに数えられいた所です。

ところで、松前藩時代には、この岬から北へは、女性が行く事を認めておりませんでした。

それは松前藩ではこの岬から北は、和人の定住を禁じていて、そこに女性が入るということは、定住を意味したからでした。

和人が交通の不便な奥地に、どんどん入るようになっては、藩の力で、とても取り締まる事が出来なくなるからです。

したがって、奥地に入るのは、ニシン漁へ行く男だけに限られていて、恋しい人との別れを惜しむ、妻や恋人の思いが、「恨みますぞえ、お神威さまは、なぜに女の足止める」「忍路高島およびもないが、せめて歌棄磯谷まで」と、追分節にもうたわれています。

この女人禁制の掟が解かれたのは、安政3年(1856)、蝦夷地を幕府が直接おさめるようになった翌年の事です。宗谷へ赴任するお役人、梨本弥五郎が、初めて妻子をつれて、この岬を通過しております。

積丹の漁港

積丹町には7つの漁港があります。かつてニシン漁で栄えた時代を背景に、現在もなお忙しく出船入船が昼夜をとわず行きかう様は、何時見ても活気がみなぎって力強い風景です。先祖代々受け継いで来た漁業を今も続ける漁民たちの顔は自信に溢れ、つくづく男の仕事場という感じがいたします。

ニシンに去られてもなお、ここに留まって先祖の残した足跡を消す事なく、積丹の海を守り続けている人々の姿は美しく、明るく前向きに時代を見据えて漁をしているのでしょう。

日本海の荒波が始まり、青葉の茂る5月を迎えると浜はヒラメ漁が始まります。

6月はウニ漁、7月はイカ漁の季節、このイカ漁が始まると遙か沖に点々と灯りがともり、まるで不夜城といった光景がみられるのです。イカ漁ならではの光景は秋に入っても続きますが、やはり秋と言えばサケ漁と相場は決まっていて、大掛かりな漁が展開されます。漁民の仕事はこれで終わらず、凍てつく寒い冬も「スケソウ漁」が待っています。スケソウダラ(スケトウダラ)は蒲鉾の原料であり、紅葉子・明太子の原料となる腹子はこのスケソウの子なのです。

こうして日本海の豊かな恵みを追って、今日も多くの船が浜に、海岸に、沖に出漁して、私達の食卓にいつも新鮮な海の幸を届けてくれるのです。

Language