おはよう御座います。
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小樽貴賓館·旧青山別邸へ行って来ました。
牡丹や芍薬が咲いておりましたよー
北の美術豪邸・旧青山別邸
大正12年に完成したもので、敷地面積約1500坪の中に和室14、洋室1と15部屋ある建物が建てられています。
中曽根家の別荘として使われておりましたが、昭和63年8月に札幌市の佐藤辰雄氏が購入され、約1年間そして1億円以上かけて修復工事を致しました。
平成元年4月から一般に公開されるようになりました。
(青山家の母屋は祝津に在りましたが、4代目青山馨氏よって北海道開拓村に寄贈・移築され、一般公開されています。)
さてこの建物の元々の持ち主だった青山家です。青山家と申しますと祝津のニシン場親方の3本の指に入る程の大網元でした。
最盛期には祝津だけでも大小100余棟の建物を所有していたと記録されております。
石狩挽歌
ゴメが鳴くから ニシンが来ると ♬赤い筒袖の ヤン衆が騒ぐ雪に埋もれた 番屋の隅で 🎶わたしゃ夜通し 飯を炊く♬🎶 あれからニシンは どこえ行ったやら破れた網は 問い刺し網か🎶♬ 今じゃ浜辺で オンボロロ オンボロボロロ沖を通るは 笠戸丸わたしゃ涙で ニシン曇の空を見る (^^♪
ニシン大漁にわいた石狩の浜・千石場所の夢を今も見ながら、昔を懐かしむ人は沢山いらっしやる事でしょう。
さて、この演歌「石狩挽歌」は昭和50年夏、東京音楽祭で作詞賞と編曲賞を受けた歌で、作詞は小樽の小学校で腕白時代を過ごした「なかにし礼」さん、作曲は札幌出身の「浜圭介」さんです。
北原ミレイの哀調を帯びた歌声は11万枚のレコードが売れる快挙を為しました。
この歌にちょっとしたエピソードが有ります。
この歌の舞台は何処かと、石狩町を訪ねてきましたら「石狩は石狩でもこの石狩町は昔からサケの本場、石狩町はサケは採れたが、ニシンは採れなかった、第一ニシン漁の権利は誰一人持っていなかったから・・・」との事で、石狩挽歌の舞台は?等と興味を持つのもファンならではの事のようです。
歌の題名と歌詞がかけ離れているのは作詞する側も作曲する側も先刻承知のこと。
石狩と言えど、石狩町だけが石狩ではなく、石狩町から見える、銭函~小樽と厚田村~浜益村も石狩湾に面しているレッキとした石狩なのです。
それにしても、石狩湾のニシン漁場と石狩浜のサケの漁場は、はっきり分かれていたようです。
(1966年平成8年9月、石狩町が市政施行して石狩市となりました。)
(2005年平成17年10月、厚田村と浜益村は石狩市と合併しました。)
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