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北海道ウイングベイ小樽からの風景写真。【小樽個人Sightseeing TAXI】

北海道ウイングベイ小樽からの風景写真。【小樽個人Sightseeing TAXI】

北海道小樽Sightseeing TAXI・個人ジャンボTAXI ウイングベイ小樽からの風景写真。

小樽市観光タクシー・ジャンボタクシー高橋です。

私用で、ウイングベイ小樽へ買い物に行きました。

日曜日で小樽市にも、こんなに人がいたのかとビックリ(笑)少し混雑してました。

小樽ビバホームのレジにも行列が…😱😨😵🚕
天気が良いので駐車場から👀📷✨採りました。👋😃☀

小樽市勝納埠頭、大きなサイロの建っているあたりは小樽勝納埠頭です。

日本海沿岸では最大のマンモス埠頭で、穀物サイロやコンテナヤード、トラックターミナル、フェリーターミナル(新潟、敦賀、舞鶴)などがならんでいます。

また小樽勝納埠頭の先には、中央埠頭、第一、第二、第三、色内埠頭とつづいています。

小樽港の新たな整備とフェリーの就航

天然の良港といわれた小樽港は第二次世界大戦後、樺太を失い、また当時のソ連や中国との貿易も政治的問題もあり貨物取扱量が減少しました。昭和11年(1936年)に411万8千tの取り扱い貨物量を記録した小樽港は、昭和25年(1950年)には196万tと半減します。

その後、昭和31年(1956年)には、昭和11年(1936年)の実績を上回りますが、エネルギーが石炭から石油に変わる中で小樽港の取扱貨物の7割以上を占めた石炭取扱量も減少します。

さらに、山が海岸に迫っていることから背後に工業団地を確保できず、工業開発と一体となった港湾整備と利用を望む事はできませんでした。

小樽港は新たな時代への対応が必要となりました。

昭和40年代に入ると船舶はさらに大型化しました。

そして、穀物、セメントなどと専用化し、コンテナ輸送も始まりました。

そこでそこで、昭和42年(1967年)には大型化する外航船に対応して、2万t級の船舶が接岸できる中央埠頭の工事が始まります。

幅260m、手宮側400m勝納側538mの大型埠頭には収容能力3万tの穀物サイロやセメントサイロ、冷凍・冷蔵倉庫などが建設され、昭和47年(1972年)に完成しました。

さらに、遊休地となった石炭積出し施設のあった若竹、勝納地区に面積48万平方キロメートルの巨大埠頭の建設が計画されます。

昭和48年(1973年)から工事が始まり、およそ112億円と10年の歳月をかけて昭和57年(1982年)に完成します。3万t級の船舶が接岸できるバースを持った埠頭は当時東京以北では小樽港だけでした。

現在勝納埠頭にはフェリー岸壁やターミナルが整備され、4万9千tの収容の力を持つ穀物サイロや輸入原木用地、小樽港マリーナが設けられています。

防波堤

小樽港は古くから天然の良港として知られ、函館とともに、北海道の表玄関として賑わったところですが、その港を守っているのが、南北に延びる防波堤です。

茅柴岬から突き出ている北防波堤は、明治30年、工学博士、広井勇の指導のもとに、11年の歳月をかけて完成しました。

この間、セメントに火山灰を加えて、コンクリートブロックを強化するなど、日本でははじめての工夫がされました。広井博士は、工事中の防波堤が、嵐にみまわれたときには、「これが壊されたなら、私も死ぬ」とピストルを懐に、工事現場で一夜をあかしたというエピソードを残しています。

また、平磯岬からのびる南防波堤は、広井博士の愛弟子、伊藤長右衛門によってつくられました。

北防波堤が完成した、明治41年に工事がはじめられ、13年後の大正13年に完成しております。

このときも、ブロックにかえたケーソン(鉄筋コンクリートの箱)を、傾斜台を使って海に沈めるという、世界初の技術を開発しています。現在、防波堤の先端には、伊藤長右衛門の遺言によって、彼の遺骨(分骨)が、遺愛の碁石などとともに納められています。

港に納骨堂があるとは、さすが歴史ある港町小樽らしいお話です。

小樽港生みの親といわれる広井勇と、育ての親、伊藤長右衛門をご紹介いたしました。

立派になった‼我が母校、私が通学してた頃は、石炭ストーブで超ボロボロ校舎、水洗トイレも無しだったなぁ~その頃小樽の学校で石炭ストーブは、小樽水産高校だけ(笑)

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