北海道『小樽北一硝子』周辺観光プラン【小樽】
『小樽北一硝子』周辺観光プラン【北海道小樽個人貸切観光タクシー】
小樽市観光タクシー・ジャンボタクシー、小樽北一ガラス周辺ですが、大変にぎわっていますが何と日本語がまったく聞こえませ~ん😰ここは北海道小樽市なのに、小樽の中国かぁ~(笑)シェイシェイ😃✌
硝子の歴史
硝子はエジプトやメソポタミアなどの古代オリエント文明に起源をもっています。
初期の段階では宝石や貴金属に近いものとして支配者階級の愛好品でしたが、採光硝子(窓)として普及するのは14世紀以降です。
日本では、天正3年(1575年)にオランダ人技師によって長崎で製造が始められました。
明治6年(1873年)に東京府北品川宿(現東京都品川区北品川)に民営の品川興業社硝子製造が開設され、大正9年(1876年)に工部省がこの製造所を買い上げ官営になりました。
19世紀末には都市化にともない採光用の板硝子が普及し、板硝子と硝子器は分化していきました。
小樽と硝子
昭和40年代に高度経済成長期をとげてきた日本のスクラップ&ビルド傾向の頂点にあって、振り返れば小樽のロケーションは「古いものが残され、暖かく、懐かしく、郷愁を誘う」ものでした。
この時代は機械によるプラスチック・ステンレス・セラミックなどといった新素材に対して、手作りによるローカルな素材としての硝子の様々な展開が小樽から発信されました。
硝子製造
明治34年(1901年)に設立された浅原硝子は、道内の硝子器製造業界では草分けで、現在唯一の漁業用浮球工場として、また小樽雪あかりの路の運河にちりばめられた浮球製造で有名です。
浅原硝子は博多で生まれた浅原久吉氏が博多や大阪で腕を磨き、小樽の富岡町で窯を開いたのがはじまりです。
明治年代の小樽近海はまさに鰊漁の最盛期で、当初網の位置を確認するために水に浮く桐などの木が使用されていましたが、水が染みこまず絶対に浮く浮球は鰊漁師にとっては重要な道具になっていました。
したがって浮球の生産に成功した久吉氏は鰊と硝子を結び付けた小樽の硝子の元祖といえるでしょう。
硝子販売
昭和9年(1934年)に浅原硝子は現在の天神町に移転しますが、浅原久吉氏は製造と販売を分離し、久吉氏亡き後、製造は2代目久吉氏、販売は弟久重氏が継承します。
この販売会社が後の北一硝子です。
鰊の漁獲量は昭和年代には不安定になり、したがって浮球需要も下火になっていきましたが、昭和40年代に小樽のレトロブームの火付け役となったのは、まさに稲穂町で馬そりランプをディスプレーしていた北一硝子でした。
以後北一硝子は昭和58年(1983年)に境町の木村倉庫を譲り受け三号館を開設したことが、多くの人々に「小樽の硝子」の魅力を見せつけ、まさに小樽観光の牽引役を果たしてきました。
ガラスの街おたる(北一硝子3号館)
ガラスの街小樽、というイメージをつくっているのが手造りガラス製品で有名な北一硝子です。
魚の倉庫を改造した3号館はヨーロッパの中世のお城のイメージです。
基礎と屋根以外は昔のまま保存されていて、高い吹き抜けになっています。
ここには北欧のガラス工芸品がそろい、北一ガラスオリジナルの石油ランプが約数百個、照明として使用されて、パステルのような微妙な色のグラスやランプ、小物類は見ているだけでも楽しいです。
ホール(喫茶)ではクラッシックコンサートなどの催し物も行われます。
冬の北一硝子(三号館)
洋ランプとガラス製品で知られる「北一硝子三号館」です。
建物は明治25年ころの石づくり倉庫を利用しており、デンマークやオランダなどで集めた、およそ600点のランプをはじめ、ガラス工芸品や食器など、約1万6000点が展示されております。
もちろん、北一硝子オリジナル商品もたくさんございます。
小樽では、レトロブームということから、古い建物を再利用した、レストランやホテル、あるいはお土産物店や洋菓子店があちこちに建てられていますが、北一硝子は、その草分けともいえる観光名所になりました。