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函館・湯元漁火館です。

[函館観光タクシー]札幌小樽観光タクシーの[湯元漁火館です。]

2016-10-15 07:42:16 | 函館市

函館観光ジャンボタクシー、函館観光タクシー高橋の函館湯元漁火館観光タクシーです。

おはよう👋😆✨☀ございます。

今日もピッカピッカの良いお天気です。

今日は、函館湯元漁火館さんからの出発です。

函館湯元漁火館、泉質はナトリウム・カルシウム塩化物泉で100%源泉掛け流しの温泉です。😃✌🚖🚕🚖



目の前が直ぐ海で、景色も最高😃⤴⤴です。


函館市の歴史

函館の「函」の字は、明治になってから改められたもので、それまでは箱根の「箱」という字を使っておりました。

今から550年ほど前、このあたりの豪族だった河野政通が、函館山の麓に館を築いたとき、その館が、箱のような形に見えたところから、「箱の館」箱館と呼ぶようになったといわれています。

江戸時代には現在の松前、当時は福山といっていましたが、この福山に本拠を構えていた、松前藩の番所となり、江差や福山とならぶ「松前三湊」の1つとして栄えました。

江戸時代も後半、幕府が松前藩にかわって、直接蝦夷地をおさめることになり、この函館に奉行所を設けました。

千島列島ぞいに、ロシアの勢力が南下しはじめ、いろいろな事件が起こるようになったからからです。

伊能忠敬が蝦夷地を測量したり、高田屋嘉兵が、択捉島への航路を開くなど活躍をしたのは、ちょうどこのころです。

こうして、蝦夷地の中心となった函館は、急速な発展を遂げ、安政2年(1855年)に、外国船が使う薪や水、食糧などの供給地として港を開き、続いて、4年後の安政6年には、長崎・横浜とともに、日本初の貿易港となってからは、外国船の往来がはげしくなり、領事館も置かれて、多くの西洋文化が流れ込みました。

函館奉行も、積極的にこれを取り入れて、諸術調所という、研究教育施設をつくって、新しい知識を勉強しようとする、若者達の要求に答え、医学所をつくり、中川五郎治に、日本で初めての種痘を行わせたりしています。

やがて明治維新をむかえ、新政府は、函館奉行の仕事を受け継いで、北海道開拓の計画を進めました。

しかし、このとき、榎本武揚の率いる幕府脱走軍が五稜郭を襲い、箱館戦争がおこります。

明治元年から明治2年かけてのことでした。

その後、政治の中心は札幌に移ってしまいましたが、北海道の海の玄関口として、重要性は変わることなく、今日まで発展を続けてきました。

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