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『積丹半島神威岬と国道229号西の河原』です。【積丹半島観光タクシー】

『積丹半島神威岬と国道229号西の河原』です。【積丹半島観光タクシー】

積丹半島観光貸切個人TAXI 『積丹半島神威岬と国道229号西の河原』観光案内。

積丹半島神威岬

岬の突端、海の中に立っていますのが、積丹半島のシンボルカムイ岩です。

えぞ地海路に お神威なくば

   ついて行きたや 場所までも

      うらみますぞえ お神威さまは

         なぜに 女の足止める

と、うたわれたカムイ岩です。

神威岬には、神威岩のほか、念仏トンネル・メノコ岩・水無の立岩・ノナマエ洞窟・サメの泳ぐのが見えるというサメ穴など、沢山の見どころがあります。

中でも念仏トンネルは、両サイドから掘り始めた穴が、途中でくいちがったためにまがっていて、真ん中あたりは真っ暗で、手探りで歩かなければならず、スリルと楽しさを、一度に味わえるところです。(現在は、落石の危険が有る為、通行できません。)

また、神威岬先端には、北海道で2番目に点灯した、神威岬無人灯台が立っています。

神威岬灯台は、平成15年9月に、一般公開され、話題になりました。

建てられてから43年を経過しており、老朽化が進んでいたので、灯台の主塔部を強化プラスチックで包み補強するなど、改修工事が終了しました。

神威岬には年間、約37万人の観光客が訪れる観光名所です。

そこで灯台の出入り口や灯光を発する部屋を大きくし、見学が出来る様にしました。

以来、毎日の見学は出来ませんが、灯台の定期点検に合わせて一般公開をするそうです。

神威岬の婦女通行の禁

神威岬付近は、天候の良い日でも波の高い事が多く、むかしは、少し荒れだすと、小さな船ではなかなか通ることができなかった難所で、蝦夷三険岬(茂津多岬・神威岬・雄冬岬)の1つに数えられていたところです。

松前藩時代には、この岬から北へは、女性が行くことを認めておりませんでした。

それは松前藩ではこの岬から北は、和人の定住を禁じていて、そこに女性が入るということは、定住を意味したからでした。

和人が、交通の不便な奥地に、どんどん入るようになっては、藩の力で、とても取り締まることができなくなるからです。

したがって、奥地に入るのは、ニシン漁へ行く男だけに限られていて、恋しいい人との別れを惜しむ、妻や恋人の思いが、「恨みますぞえ、お神威さまは、なぜに女の足止める」「忍路高島およびもないが、せめて歌棄磯谷まで」と、追分節にも歌われています。

この女人禁制の掟が解かれたのは、安政3年(1856年)、蝦夷地を幕府が直接治めるようになった翌年のことです。

宗谷へ赴任するお役人、梨本弥五郎が、初めて妻子を連れて、この岬を通過しております。

積丹神威岩の伝説、積丹神威岬にまつわる悲しい恋の伝説です。

兄頼朝の追手をのがれて、蝦夷地にわたった義経は、日高のアイヌコタンに滞在し、いつしかコタンの娘、チャレンカと恋仲になりました。

しかし、大きな望みをいだく義経のこと、別れも告げず、ひそかに旅立ってしまったのです。

これを知って驚いたチャレンカは、あとを追って、ようやく積丹神威岬まで来ましたが、ときすでに遅く、義経一行は帆をあげて船出したあとでした。

チャレンカは遠ざかる船に、声の限り叫び続けましたが、むなしく波の音に打ち消されるばかり・・・。

ついに悲しみと恨みを残して、崖の上から身をおどらせてしまい、積丹神威岩になったといい、それ以来、和人の船が、女性を乗せてこの岬を通ろうと、暴風雨がおこり、船の進むのを邪魔しますので、これはアイヌ娘の恨みと呪いによるものだろうと、語り伝えられています。

積丹神威岩の伝説をご紹介しましたが、これは、和人の奥地定住をきらった松前藩が、女人禁制の政策を進めるために作った物語だろうと言われております。

タコ岩

海中にそそり立つ岩は誰が見ても「あのタコ!」そっくりの姿、ズバリ「タコ岩」です。

別名「立岩」とも申します。

タコ岩付近の海岸は割合と平らな岩場で、カレイ、ホッケ、ソイ、アブラコなど絶好の釣り場として親しまれています。

タコと言えば10月から1月頃(地域によっては漁期が異なる)が旬で、この頃獲れるタコは寒ダコと言って身が締まっていて甘味があり、赤々と燃えるストーブを背に「タコ刺しでお酒をキューっと一杯・・・」と想像しただけでよだれがでそうです。

積丹町の歴史

行政の中心である旧美国町は昭和31年9月、近隣の入舸村と余別村が合併して積丹町を名乗る様になりました。

この町の町章を見ますと三羽のカモメで描かれており、美国・入舸・余別が一つの町に統合された事を表しております。

積丹とはアイヌ語で「シャクコタン」夏の村・集落の事です。その言葉の通り今から4千年ほど前、縄文人そして後にはアイヌ人がこの辺りの海岸線に、夏の集落を作り居住した事からこの地名が生まれた様です。

この町に和人の歴史が始まったのは今から350年前の慶長年間で松前藩の領地となり、宝永3年(1706年)には美国場所と積丹場所の両場所が設けられました。

美国場所(現在の美国)は松前藩・近藤家が、積丹場所(現在の日司)は松前藩・藤倉家が代々知行主で、漁場所はもともと、知行主に代わって場所請負人が治めていました。

中でも積丹場所請負人、岩田金蔵は安永5年(1775年)から明治まで、長期に亘って代々場所請負人を務めてきた方で、後には美国場所も治める様になりました。

明治に入って請負制度は廃止され明治35年には美国町となり、39年には余別・入舸に村制が施行されるなど、早い内から多くの人々が日本海に面した積丹の漁場に定住していた事が伺われます。特に明治から大正時代にかけてニシン漁場として栄えた所で、鰊が群来る時、海面は銀色に染まり、ニシンを追ってやって来る大勢の「ヤン衆」達で漁場は一層活気づいたともうします。

ヤン衆達がニシン漁場で作業歌としたのがあの有名な「ソーラン節」で、北海道を代表する民謡として今も歌い継がれております。「ソーラン節の発祥の地は我が町」と名乗り出ているのが、隣り町の余市町と積丹町の両町で、本家争いとまでは至っておりませんが、それぞれ、記念碑を建てて地盤固めをしているようです。

大字沼前町

平成13年に使用開始となった沼前駐車場の広場には、24時間使用可能な水洗トイレと積丹の碑があります。

積丹の碑の碑面には「ソーラン節のふる里積丹」、背面には「一般国道229号平成8年11月1日開通」と記されています。

碑文は

「鰊全盛の時代からソーラン節と共に

歩み続けた町。

移り変わる時の中、

今も変わらぬ積丹の海がここにある」

駐車場の面積は4933㎡で、大型車両を含めて53台が駐車出来ます。

水洗トイレは大8、小3、身障者用1あり、24時間使用可能です。

ウニ

数多いウニの中で食用になるのはバフンウニ、ムラサキウニ、アカウニなど。

食べて美味しいのは、冷たい水域に生息するエゾバフンウニ(地元ではガンゼと呼ぶ)で、名前に似合わず色も形も美しいウニです。

コンブを食用にしており、春から夏にかけて水揚げされます。

キタムラサキウニ(地元ではノナと呼ぶ)は暖流系で日本海沿岸に広く生息します。

とげが長く黒紫色をしており、食用となる卵巣部分はエゾバフンウニより大きく、色も黄色みがかかっています。卵巣が成熟する春から夏にかけてが旬で、焼きウニ、ウニ和え、ウニ味噌、卵とじ、寿司ネタなど料理法も数多くありますが、生ウニを熱々のご飯の上にタップリと乗せノリを散らしてワサビ醤油で食べる「ウニ丼」が最高です。

トロリとした甘味と舌触りは磯の香りとともに、なんともいえない風味があります。

積丹町・積丹半島のウニ漁解禁日です。

積丹町美国地区のうに漁解禁日は6月1日~8月31日迄です。

積丹町日司地区のうに漁解禁日は6月10日~8月31日迄です。

海の底まで見える、積丹ブルーの綺麗な海で採れる極上の生うに丼、是非一度ご賞味下さい。(^_^)v

写真のウニ丼はエゾバフンウニとキタムラサキウニのハーフ&ハーフタイプで、おすすめです。

一度に2種類のウニを堪能できます。

西の河原(ジュウボウ岬)

西の河原はアイヌ語で「カムイミンタラ」神の庭という意味です。

かつて鰊漁で賑わった西の河原も、今はその面影もなく地蔵尊を奉るお堂がひっそりと河原を守っているだけです。この地蔵尊、実はただの木の根です。

いつの頃か奉られるようになりましたが、誰かが「こんなのはいらない」と海の中へ捨てると、翌朝、もとの浜辺に戻ってきていたのです。

何度捨てても同じように浜へ戻ってくるのです。

不思議に思ってよく見ると、木の根のあたりに地蔵様の姿がたくさん彫られておりました。

積丹沖で遭難した遺族が慰霊のために

地蔵を掘って寄進したものといわれ、これは大切な仏様であると元の祠に安置したということです。

この「木の根地蔵」は高さ1mくらい、かなり風化が進んでいて、小さく掘られた地蔵も朽ちてきているそうです。

仏教で「賽の河原」というと冥士の三途の河原で死んだ子供が(父母の)供養のため石を拾って積むと、鬼が現れて崩すという幽玄の世界のことですが、ここは石を崩しておいても翌朝には元通りに積み直されているそうです。

珍しいい「木の根地蔵」のしわざでしょうか。

北海道には奥尻島の稲穂岬と恵山にも賽の河原がございます。

幻の国道開通

積丹町大字沼前町から先、幻の国道と言われて久しかった6.7㎞の新ルート、このルート建設に当たっては動物や自然景観を出来るだけ保全する事を考慮し、何よりも落石、雪崩による災害を避ける為に、ルートの約50%はトンネルや覆道で通過出来るように計画され、工事が行われました。

西蝦夷地三険岬と言えば南から茂津多岬、神威岬、そして雄冬岬の事を指したものと思われますが、道内の海岸線の国道で最後の開通区間となりましたのが、この「幻の国道」と言われ続けてきた神威岬の南側に位置する海岸道路でした。

お隣り同志の積丹町沼前と神恵内村ノット間の6.7㎞の工事に着手したのは昭和45年(1970年)、それからおよそ26年間という歳月と総工費約500億円の巨費を投じて、平成8年(1996年)11月1日開通の日を迎えたのです。

積丹町沼前から神恵内村ノット間は所要時間約10分、川白までは約15分とあっと言う間の時間で結ばれました。

それまでは近くて遠い町などと皮肉る人もおりましたが、現実のものとなりますと住民の喜びはひとしおで、それまで長く続いた不便さは過去のものとなり、今後の生活に様々な変化がもたらされます。

※新ルートが出来る前、例えば神恵内村川白から、積丹町余別までの間ですと当丸峠超えで約73㎞、所要時間は約1時間40分、現在は約1時間10分も短縮して、わずか20分の所要時間で約15kmです。

しかし、同時に今、問われているのが交通事故、犯罪、密漁の増加、そして国定公園指定地内の自然破壊につながる行為など、便利になればなるほど様々な問題も起こりえるとして、頭を悩めているとこです。

しかし、ニシンに見放され、トンネルの事故などの不安材料で境地に立たされた積丹半島ですが、待ちに待った道路開通によって積丹が少し元気を取り戻すことができたのではないでしょうか。

しかし、ニシンに見放され、トンネルの事故などの不安材料で境地に立たされた積丹半島ですが、待ちに待った道路開通によって積丹が少し元気を取り戻すことができたのではないでしょうか。

明治からの住民の願いが叶えられ、観光客にとっても今まで見る事の叶わなかった海岸線の絶妙ともいえる風景を、こうして車窓から観光出来るという事は、ニセコ・積丹・小樽海岸国定公園の新しいい観光スポットとして益々注目される事でしょう。

積丹半島の山々の尾根が海にせり出し断崖絶壁の岬を形成し、そこにに降り注ぐ名も無き滝の数々、何処までも青く澄んだ「積丹ブルー」の大海原など、神秘のベールに包まれた西積丹の魅力を堪能頂ける新ルート国道229号です。

地滑り地帯

「地滑り地帯」と言われる地形が続いています。

先ず、奥の崖でまで草木が茂っていますが、この一帯はかつて6つの沼が有りました。

しかし、湿ったところが有れば少しでも水を抜き、抜き取った水は海岸線まで引き込む方法を採り、地滑りを防止する為の工事が国道の工事とと共に行われましたが、この一帯もその一つです。

それによって、現在沼は二つしか有りません。

人間が大地に挑むとき、一番の難関は「水」との戦いです。

この水を克服する事によって不可能と思われた地形に、道路などの土木工事を実施する事が可能となります。

更にこの先には海底火山の熔岩で出来た急崖海触地域が連続しており、海岸まで急な崖が迫っています。

その上、浸食などの自然災害を受けやすく、それを防止するために「積丹トンネル」や「西の河原トンネル」を初め、約20万㎥の土砂で海岸を埋め立て、安全通行出来る道路用地が造成されました。

そして、豊浜トンネル崩落事故を踏まえてトンネルの出入り口にテレビカメラを設置し、トンネル内非常警報システムに約16億円をかけるなど、安全面に対して万全の体制を整えております。

四半世紀にわたる大工事が完成して見ればあっと言う間の出来事のようですが、ここまでたどり着く道のりは凄く長く、国道229号の全線開通は地元にとっては明治以来の悲願達成という事になるのです。

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