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硫黄山とエゾイソツツジです。

[弟子屈町・硫黄山観光ジャンボタクシー]北海道小樽観光タクシー高橋の[弟子屈町・硫黄山観光案内]

2016-07-04 09:27:31 | 弟子屈町

弟子屈町に有る

硫黄山です。

標高510㍍アイヌ語で「アトサ・ヌプリ」といい「裸の山」と言う意味です。

山肌に見える黄色い部分は、すべて純度の高い硫黄です。

明治の初めから昭和38年まで80年間にわたって採掘が行われました。🚕🚕🚕


硫黄山哀史

川湯温泉の硫黄山は、その名の通り、硫黄の噴き出す山として有名です。

ここには、アトサヌプリ硫黄鉱業所があり、明治10年から昭和38年まで、硫黄が掘られていました。

天然資源の採掘は、北海道の開拓の大きな課題でしたが、道路づくりとならんで、ここにも、囚人の残酷物語が秘められています。

ここで掘られる硫黄は、品質、埋蔵量とも「世界一」と折り紙つきでしたから、明治19年、北海道庁は、鉱山を民間へ貸し渡し、標茶にあった釧路集治監の囚人を使って、採掘や運搬にあたらせました。

アトサヌプリに、囚人を監視する外役所がつくられ、1年に硫黄7万石を目標に採掘しました。

労働はきびしく、しかも、硫黄の粉と亜硫酸ガスによって、目の病気にかかり、失明する者が続出しました。

わずか半年の間に、150人あまりが病気になり、42人が死亡したという記録が残っています。

そのうえ、看守も囚人もおたがいにイライラしていることから、誤解や衝突も多く、記録によれば「抵抗による惨殺」とか「転落による事故死」などの文字が残されています。

とくに、明治20年代は、道路開削、土木工事、採鉱、開墾などを強く進めた時代でしたので、囚人たちは酷使されました。

こうしたきびしい労働のようすを見て驚いた、キリスト教教誨師、原胤明は「囚人といえども人格を尊重すべき」と、当時の刑務所所長、大井上輝前に進言しました。

大井上輝前所長の決断によって、3年で中止されたのでした。

しかし、釧路集治監と、硫黄山の外役所で亡くなった、囚人たちの合同埋葬墓地からは、手錠をかけられたまま葬られた遺骨が何体も見つかったということです。

北海道は、囚人と屯田兵によって拓かれたとさえいわれていますが、開拓のためにくり広げられた強制労働は、北海道の各地に残酷物語として残されています。


蝦夷イソツツジの白い花も咲いていました。


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