北海道『小樽手宮洞窟古代文字』です。【北海道TAXIトラベル(株)】
『小樽手宮洞窟古代文字』です。【北海道TAXIトラベル(株)】
手宮洞窟保存館
小樽市観光タクシー・ジャンボタクシー、小樽市手宮に有る、小樽市手宮洞窟保存館です。
国の史跡に指定されています。
この小樽市古代文字の彫刻は、慶応2年(1866年)石材を切り出していた長兵衛という人が、偶然見つけたもので、のちに、イギリス人の火山・地震学者、ジョン・ミルンが、スケッチとともに英文で発表、以来、国際的にも注目されるようになりました。
この小樽市手宮洞窟の彫刻は文字のようでもあり、鳥、あるいは人間のようでもあり、見る人によってさまざまです。
大正7年、中目覚は、古代トルコ文字であると判定し、「われ、部下を率い大海をわたり・・・戦い・・・この洞窟に入りたり」と読み、また、昭和23年には朝枝文裕が、中国の古代文字で「船をならべて来たり、末遂にこの地にいたり、本営を置く。
帝この下に入る。変あり、血祭す」と読まれるなど、定説はないようです。
しかし、いずれにしても、古代文字はそのむかし、日本海の荒波をこえて漁をし、新天地を求めてやまなかった、先住民族の姿を想像させてくれます。
手宮古代文字
慶応2年(1866年)建築用石材を探し歩いていた石工長兵衛が偶然、手宮洞窟を発見しました。
内部の奥壁に今まで見た事もない文字らしいものが彫りこまれ、一躍、手宮洞窟が内外に知られる事となったのです。
明治に入り、多くの研究家がここを訪れたが、世界に初めてこの彫刻を紹介したのは、英国人ジョン・ミルンです。
彼は明治12年(1879年)にこの地を訪れ、翌13年、研究成果を学会に発表しました。
このころ既に文字設と彫刻設とがあり、研究者の意見が二分していました。
一般に「手宮古代文字」として、今日に普及しておりますが、実際は本当に文字であるか否か、現在でもわかっておりません。
過去、これを文字として解読した研究者もいますが、今は意味をもった印、彫刻とする考え方が学界内で支持されております。
また、単なるいたずら説も一時発表されましたが、昭和に入り隣町の余市町で発見されたフゴッペ洞窟内部にも、これと同様の彫刻が数多くあったことから、いたずら説は一蹴されました。
古代のロマンはロマンは学術的に過ぎると、ややつまらなくなります。
むしろ、手宮洞窟の彫刻のように読めぬ方が、一面的に夢をかきたててくれます。
訪れる人それぞれが、自分の思いを膨らませてくれる方がいいのではないでしょうか。