観光貸切TAXI プラン ルート モデルコース
小樽駅or小樽市内ホテル~北海道ワイン工場~毛無山展望台~田中酒造亀甲蔵~旧日本郵船~北運河~旧日本銀行(現在金融資料館)~カトリック富岡教会~地獄坂~船見坂~小樽駅or小樽市内ホテルor北一硝子orオルゴール堂
(有料道路利用料金 駐車場料金 施設体験見学使用料金等含まれておりません)
料金
小樽市内観光早回り3時間観光Bコース
普通車タクシーお客様4名まで乗車可能 1時間6300円×3時間=18900円
ジャンボタクシーお客様9名まで乗車可能 1時間8940円×3時間=26820円
モデルコースです。時間内コース変更可能です。
小樽駅
現小樽駅は北海道鉄道株式会社により明治36年(1903年)6月28日、開業しました。
「小樽中央駅」が当初の名称で、翌明治37年に「高島駅」と改称されました。
駅の屋内天井に大きな六角灯篭がつり下げられ、「たかしま」と記されていました。
高島駅の名前は、鉄道計画時、駅所在地周辺の現稲穂1丁目~5丁目が高島郡だったのが由来です。
その後「稲穂駅」と呼ばれたこともありましたが、明治38年、現南小樽駅まで線路が結ばれた時、「中央小樽駅」とまた改称されました。
当時、現南小樽駅は小樽駅と呼ばれていました。
だが、街の中心部にある主駅は中央小樽駅で、切符を間違えて求める乗客が多かったため、大正9年(1920年)になって両駅とも、現在名に改称されるに至りました。
小樽駅の現駅舎は昭和9年12月に完成しました。
函館や札幌も改築運動を行っていたが、小樽が一歩先んじました。
鉄筋コンクリート造りで、ホームから地下道を通って駅前広場に出るという、当時としては斬新な構えでした。
乗客は左右対照の洒落たベージュのタイル張りの建物に、上野駅みたいだと言う方が多いようです。
現在33個の石油ランプが駅舎内部で輝いております。
小樽駅、昭和9年北海道で最初の、鉄筋コンクリート造りの駅として誕生しました。
地下道も有り、当時は、そのモダンぶりが自慢でした。この小樽駅、東京の上野駅に凄く似ているとは、思いませんか?
それもそのはず、この小樽駅は上野駅と姉妹駅になっております。
小樽市朝里川温泉1丁目に有る、小樽・北海道ワイン(株)「おたるワインギャラリー」、昭和49(1974)年に創業した北海道ワイン(株)が平成8(1996)年に設置した見学施設です。
葡萄栽培からワインが出来るまでの工程をビデオで観賞できたり、ガラス越しに瓶詰ラインを見学できる他、その時々の美味しいワインを試飲することが出来ます。
小樽港防波堤の築造
天然の良港といわれた小樽港も、一度北からの強風に見舞われると、外洋から押し寄せた大波が湾内の船を破壊することが再々でした。
酷い時は陸上施設にまで損害を与えました。
当然、防波堤を造ろうとの計画は早くからあったのですが、国の腰はなかなか重かったのです。
実は以前にも外国人技師の設計で、宮城県と横浜で防波堤工事が行われ、これが完全な成功とはいえなかったことが尾を引いていたようです。
ようやく北防波堤築造が着工となったのは、明治30年(1897年)5月です。
工事責任者として、初代小樽築港事務所長になったのは、道庁技師広井勇氏です。(1862年~1928年)
土木技術、機材ともに不十分な時代だけに、この大工事に立ち向かった広井氏の苦心のほどは察するに余りあるものがあります。
明治32年12月の大暴風の時、事務所でまんじりともしなかった広井氏が、夜半やや風が収まったので外へ出てみると、堤体と起重機は無事に残っていました。
広井氏は後年、「自分はその時、天を仰いで神に感謝した」と言っております。
こうした苦労のすえ、北防波堤は明治45年5月、完成致しました。
引き続き、2代目築港事務所長になった伊藤長右衛門氏により、南防波堤築造が進められ、大正10年(1921年)完成致しました。
小樽毛無山展望台から眺める小樽市の眺望です。
小樽市信香町に有る、小樽田中酒造亀甲蔵、小樽旧岡崎倉庫、岡崎謙、明治10(1877)年佐渡生まれ。
東京英和学校、国民英和学校、東京高等商業学校(一橋大学)で学び、明治32(1899)年に米、荒物、雑穀、倉庫業の家業を継いでいます。
区制時代には区会議員、市政時代には市会議員、昭和2(1927)年には議長になっています。
前田家のおかかえ能楽師であった波吉宮門に能を学び能を愛していました。
自費で能舞台を自宅に普請するほど文化にも造詣が深かったようです。
能楽堂は市に寄贈され、公会堂の一角に建っています。
また、現在田中酒造亀甲蔵は明治39(1906)年に建てられた旧岡崎倉庫です。
酒と水、1升(1.8ℓ)の酒をつくるには10升の水を使うといわれるように、酒の10倍以上の水が様々な段階で必要です。「洗米」米を洗う水、「浸漬」米を適度に潤す水、「蒸米」米を蒸気で蒸す水、「仕込水」米と麹とを一緒にタンクに入れる水、「割水」度数調整のための水といったほとんど全てのプロセスで水を使用します。
小樽が自慢できる味を環境として助けてきたのは、まさに小樽の水に他なりません。
田中酒造亀甲蔵、明治32(1899)年に創業した田中酒造(株)が平成8(1996)年に設置した酒造工場と見学施設です。
10種類以上のお酒が試飲できるミュージアムです。
小樽市色内に有る、旧日本郵船小樽支店、明治39年につくられたもので、日本銀行小樽支店とともに、小樽の明治洋風建築の双璧といわれ、規模こそあまり大きくありませんが、正面は、バルコニー付の玄関を中心にして、左右対照になっていて、軒下の石の装飾も、大変素晴らしものです。
また、内部も、彫刻をめぐらせた大きな丸い柱や、(大会議室の)豪華なシャンデリア、(貴賓室の)大理石のマントルピースなど、当時の繁栄ぶりを物語っています。
なお、この建物は、完成直後の明治39年11月、日本とロシアの間で、南樺太の国境を定める会議(日露国境画定会議)が開かれ、まさに歴史の檜舞台でした。
この建物の設計者は佐立七次郎博士で、現・東京大学工学部の前身、工部大学校造家学科の1期生です。
ところでこの1期生は、佐立七次郎、辰野金吾、曽根達蔵、片山東熊のわずか4人ですが、佐立は、明治39年完成の日本郵船小樽支店、辰野は、明治45年完成の日本銀行小樽支店、曽根は、昭和2年完成の三井銀行小樽支店の設計をおこなっています。
日本建築の土台をつくったと思われる4人のうち、3人までが小樽で腕を振るったことは、興味ぶかいことです。
埋め立て式小樽運河の完成
小樽港の埋め立て事業は、東大教授広井勇博士の意見により明治42年(1909年)、運河方式に設計変更されました。
その後、速成派、延期派、さらに埠頭岸壁派と依然、意見が分かれてすったもんだの騒ぎのすえ、やっと着工にこぎつけたのは大正3年(1914年)8月のことでした。
埋め立て工事は北の手宮側から4区に分けられ行われ、埋め立てが終わったところから逐次これを利用しました。
大正7年8月1日から9月19日まで、2区埋め立て地(現在の北海製罐の場所)で「開道50周年記念博覧会」を開催しました。
小樽というところは埋め立て地が出来ると、そこで博覧会をやる傾向があり、この博覧会はその第一号ということになります。
大正7年12月、第3区に税関支署が建てられました。
当時の写真を見ると、税関庁舎のすぐわきは埋め立て工事中で、埋め立てるとすぐ併用をはじめたことがわかります。
大正12年12月、4区までの全工事が完了し、幅40m、長さ1314mの小樽運河が出現しました。
総工費は190万6096円で、第一次世界大戦によるインフレ景気で、当初予算の2倍近い額となりました。
ちなみに、当時の盛り蕎麦の値段は10銭で、これもかなりの値上がりでした。
北海道の代表的な観光港町小樽
明治、大正、昭和の初めまで北海道の商業の中心都市として、栄華を誇っておりました小樽の街は今、当時のアンティークな建物を再利用した観光の街として、日々観光客で賑わっております。
今から30数年前、港小樽を代表する「運河埋め立て問題」が起こり、埋め立てか?保存か?両論が真向から対立し、
小樽市議会で大きく取り上げられ、しかし中々結論はでませんでした。
そこに結成されたのが小樽運河保存会で、会の人々は入り船出船で大いに沸き立った小樽の歴史を埋もれさせてはならない、小樽っ子の思い出の運河を何としても残そういう必死の守りを続けた事が、多くの賛同者や理解者を得ることができ、今日に至ったのです。
もし、あの時、そのまま車道にするため埋め立てていたら?今日の小樽の観光はあったでしょうか。
30数年の歳月は最良の結論を生み出しました。
運河の幅は40m、その半分を埋め立てて、残り半分を運河のままに残そうという事でした。
運河南側は昭和61年3月に散策路が設けられ、北側も当初の一部埋め立てを全面的に中止し、そのまま残すこととなり、平成2年1月南側に次いで散策路が設けられ、ガス灯が運河を照らしております。
小樽市は運河沿いの石倉庫群と合わせ、かつてウォール街といわれた旧日銀小樽支店等のある所を景観地区に指定し、民間企業の様々な事業努力が古いたたずまいの建物を利用して、現在のニーズにあった事業展開をすすめ、ここ数年の観光ブームとあいまって小樽への観光客は年間約700万人までになっております。
観光で今流行しているウォーターフロント「水際」、小樽は正にウォーターフロントそのもので、大都市札幌からわずか1時間の所に位置し、地の利の良さも手伝って「観光北海道」のブームもここまでかと思われている中、魅力あるアンティークな街並みは、訪れる者に安らぎと古き良き時代を偲ぶことの出来る懐かしさを与えてくらるところとして、多くの観光客が訪れております。
小樽市色内に有る、旧日本銀行小樽支店、小樽は歴史の重みを感じさせる建物が多く、ハウスウォッチングの楽しみある街並みです。
旧日本銀行小樽支店は小樽に残っている、明治洋風建築を代表するものの1つで、どっしりとした土台、ぶあつい石の壁、そしてルネッサンス・スタイルの建物は、西洋の古いお城を思わせます。
壁の凹凸や、軒下に見られる石の装飾、奥深い玄関や長い窓、それお守るように立つ柱など、どれ一つ取り上げても、素晴らしいデザインですが、とくに、ドーム付き屋根が魅力といわれております。
この建物は明治45(1912)年レンガ造りでつくられたもので、設計者は元の日本銀行本店や、赤レンガの東京駅をつくった辰野金吾氏です。
小樽市富岡に有る、小樽富岡カトリック教会、昭和4年に、ドイツ人宣教師の設計・指導で建てられた、小樽カトリック富岡教会です。
ツタにおおわれた天主堂、ステンドグラスをはめ込んだ飾り窓、アーチ型に石を組んだ玄関など、ロマンチックな香りただよう教会です。
なお、このあたりは、亡き石原裕次郎さんが(3歳~8歳までの)少年時代をすごしたところです。
となりの写真は小樽公園です。
小樽公園は、小高い丘の上につくられた、緑の多い公園で、北海道でただ一つの能楽堂をはじめ、市民会館や体育館、図書館・公会堂・野球場などが点在します。
また、15種類7000本のツツジが植えられていて、花の季節は、目も覚めるばかりの美しさです。
このツツジは、小樽市の「市の花」に選ばれていますが、庭木が「市の花」になっている珍しい例です。
北海道の方言
北海道の方言の成り立ち
北海道の方言には歴史的背景から、「海岸部方言」と「内陸部方言」に大きく分けることができます。
北海道に和人が初めて渡って来たには鎌倉時代初期からで、開発が始まったのは室町時代末期からといわれています。
蝦夷地での豊富な魚介類と交易を目的に松前町付近を中心に移住してきました。
移住者は当初、おもに下北、津軽半島の漁民でしたが造船技術の進歩により大型木船が造られるようになると秋田、山形、新潟、富山、石川、福井からも来道するようになりました。
移住し家は漁場を求めて海岸線沿いに定住していきました。
このことから「海岸部方言」はおもに東北地方出身者によって形成され、北海道の方言の基盤になりました。
一方、内陸部の開発にかかったのは明治2年(1869年)、開拓使が置かれてからです。
開拓使の拓殖計画により、本州各県から移住民が大挙して来道しました。これは北海道の防備と本州の生活困窮者救済、開墾が目的でした。
海岸部は数百年の間に徐々に開拓されましたが、内陸部はわずか数十年の間に急速に開拓されました。また、移住者の多くは農民や士族であったことや出身地が全国におよんでいたこともあり、海岸部とは異なることばが使われていました。
同郷人の多い所では出身地のことばが使われていましたが、入植者が増え出身地が混じったところではことばが通じなかったため、意思の疎通ができることばを求め合い「共通語」化され、残ったことばが「内陸部方言」となりました。
出身地の方言を捨て去る言語生活の積み重ねで、内陸の方言は形成されていきました。
小樽の方言
このように海岸部方言と内陸部方言では歴史的背景に違いがあります。
海岸部方言は道南を中心に日本海側、太平洋側、オホーツク海側の海岸部で使われているほうげんです。
さらに分類すると松前郡一帯の「松前方言」と松前を除く渡島、桧山、後志地方の「道南方言」、道南以外の「道東、道北、オホーツク沿岸方言」に分けることができます。
小樽は「道南方言」に属していますが、その色彩は薄まりつつある地域といえます。
発音のおもな特徴
「し」「す」「ち」と「つ」「じ」「ず」の区別がつきにくい。
〈例〉すす(寿司、獅子)、つつ(土、父、乳)、つず(知事、地図)
「い」と「え」が混同している。
〈例〉えだ(板、枝)、えぎ(息、駅)
「へ」と「せ」が混同している。
〈例〉へなか(背中)、かせる、かへる、(食わせる)
ことばの特徴
「べ」で二つの意味を表す。
〈例〉行くべ(行こう、行くだろう)
「ない」にあたるところは「ね」になる。
〈例〉見ね(見ない)、知らね(知らない)
助詞「に」「へ」「を」が「さ」になる。
〈例〉船さ乗る(船に乗る)、店さ寄る(店に寄る)
小樽でよく耳にするおもな方言
いやいや(やいや)
あいずちに使います。「まあまあ」などあいまいな感じ。
いずい
痛痒いこと。我慢できないほどではんくぁいが痛痒い状態。
おがる
おもに植物が成長したときに使うが、こどもが成長したときにも使うことがある。
おばんでした
こんばんは。なぜか過去形です。
がおる
疲れ果てて死にそうになる。疲れるの最上級。
がさい(がっさ)
物の状態が悪いこと。ダサイに似ている。
かっぱがす
ひっくりかえす。
きかない
勝気なこと。気丈。
しゃっこい
冷たい。
ちょす
触る、いじる、ちょっかいを出す、からかう。
つっぺ
栓をする。「つっぺかう」(栓をしてふさぐ)
はかいく
はかどる、作業が進む。
まかす
撒き散らかすこと。
まぶい
美しい、かっこいい。
ゆるくない
つらい、難しい、大変。
此れを覚えて、あなたも小樽人になりましょう。!!
方言は文化遺産
北海道の方言は、特に後志以南の海岸部の方言はいわゆる「浜ことば」といわれ、田舎の人の使う「悪いことば」だと思っている人が多いのですが、これは間違った考え方です。
ことばには地理的分布があり、分布範囲の広いことばが通用範囲も広く共通語となりました。
方言は、その範囲が狭く地域に残って行きましたが、その方言は自分が作ったことばではなく、親またその親から伝承された地域の貴重な文化遺産なのです。
方言には由緒ある古語が使われていたり、標準語では表せない感情や状態、深みを表現できる魅力あることばです。
方言の語源を探ると、もっと街の魅力を発見することができるかもしれません。