札幌市内各ホテルor札幌駅~大通り車窓~時計台車窓~旧道庁写真タイム~大倉山ジャンプ台or札幌チョコレートファクトリー・白い恋人パーク~小樽運河写真タイム~北一硝子三号館周辺散策1時間30分~小樽駅or小樽市内各ホテル
(逆コースも出来ます。)(駐車場、高速料金別)
時間内コース変更可能です。(^_^)v
料金
普通車タクシーお客様4名迄乗車可能 5時間 ¥31500
延長30分 ¥3150 1時間 ¥6300
ジャンボタクシーお客様9名迄ご乗車可能 5時間 ¥44700
延長30分 ¥4470 1時間 ¥8940
札幌大通公園
この札幌大通公園は、札幌の中央を東西に走る幅105m、長さ1500mの広い通りで、明治4年、札幌中心部に防火地帯として設けられたのが始まり、といわれています。
50種類、およそ8500本余りの樹木に囲まれた札幌大通公園には、噴水や、多くの彫刻・記念碑などが置かれ、季節事に装いを変える花々も、彩りをそえています。
都市の道路公園として、「日本の道百選」の1つに選ばれていますが、さらに、21世紀にふさわしい都市空間にしようと、6年をかけて、大通りリフレッシュ事業がすすめられています。
トウモロコシをほおばり、アイスクリームを食べる人、芝生に座って語り合う人達、鳩とたわむれる子供達など、市民はもとより、札幌を訪れる人々の、憩いの場となっております。
また、札幌市の野外行事のほとんどは、この大通公園を中心に開かれています。
札幌時計台
木立に囲まれた赤い屋根の建物は、札幌のシンボル時計台です。
時計台の鐘がなる、大空高くほのぼのと┅歌われている札幌時計台は、明治11年、北海道大学の前身、札幌農学校の演武場として建てられ、時計と鐘が取り付けられたは、明治14年の事です。
明治39年にこの場所に移され、今も詩情ゆたかな鐘の音を響かせております。
昭和45年、国の重要文化財に指定され、現在は札幌歴史館として利用されています。
北海道道庁旧本庁舎
池の木々も紅葉しています。長い間赤レンガの愛称で親しまれている、札幌北海道道庁旧本庁舎です。
明治21年、当時としてはモダンな建物として、人々を驚かせたそうですが、北海道の移り変わりを見つめて100年余り、今では、国の重要文化財に指定され、幕末から明治にかけての公文書や、北海道の歴史についての資料を保存する文書館として、一般に開放されております。
屋根の下に描かれている赤い星は、北極星を旗印とした開拓使のマークです。
まれに札幌ビールのマークだ!とおっしゃる方がありますが、それもそのはず、そもそも札幌ビールは、政府の指導によってつくられた、官営ビールが始まりでしたから、同じ星のマークを使っているのです。
赤レンガのすぐ後ろが現在の庁舎です。
札幌大倉山ジャンプ台
札幌大倉山シャンツェ、100㍍級ジャンプ(ラージヒル)の行われる、札幌大倉ジャンプ台(シャンツェとは、ドイツ語でジャンプ台の事です。)スポーツの宮さまと言われた、今は亡き秩父宮様のお声がかりで、昭和7年、大倉(喜七郎)男爵が、ノルウェーのヘルセット中尉に、設計を依頼したのが始まりです。
数々の大会が行われ、多くの名選手を育てていますが、昭和45年、2年後のオリンピックにそなえて、現在の姿に生まれ変わりました。
136.7㍍の高台のスタート地点まで、リフトで登ることができ、夏は一般にも開放されておりますので、皆様も選手の気分を味わってみてはいかがでしょうか。
一番上に見える建物は、スタートハウスです。
60名の選手を収容することが出来ます。
スタートハウスの下が、一番高いスタート台で、その時の天候や雪質に合わせて、スタートの位置を下げていきます。(スタート地点は、全部で34ヶ所です。)
スタートハウスから下がって、五輪のマークが見える所がカンテと呼ばれる踏切台です。
スポーツ地点から、カンテまでをアプローチといい、ジャンパーは35度の斜面を、時速100㎞もの猛スピードで滑り降りてきます。
そして、カンテで空中に飛び出した選手が、着地する斜面をランディングバーン(37度)、一番下の平坦部分をブレーキトラックといいます。
ブレーキトラックから、スタートハウスまでの高さは136.7㍍、テレビ塔が147㍍ですから、いかに高いトラックから滑り降りて来るか、おわかり頂けるのではないでしょうか。
ジャンプ競技は、飛んだ距離と、飛んでいる時の、姿の良し悪しを合わせて得点を競います。
大倉山にリフトが完成したのは、昭和57年11月です。全長285㍍で、運搬器の数は56、ブレーキングトラックからスタート地点までは、4分少々で行く事が出来ます。
このリフトができるまで、選手達はスキーをかつぎ、775段の階段をおよそ30分掛けて登っていました。
札幌チョコレートファクトリー・白い恋人パーク
札幌市宮の沢に有る、札幌白い恋人パークです。
今日の札幌は、お天気最高😃⤴⤴ですが気温がグングン上昇しています。
もう30度近く有ります。☀😵💦
白い恋人パークはお菓子のテーマパークです。
北海道みやげの定番「白い恋人」の工場見学やクッキー作り体験が人気です。
チョコレートの歴史やアンティークのカップの展示など、見どころ盛りだくさんの施設です。🚕🚕🚕😃✌
隣のコンサドーレ札幌の練習場で、この暑さの中、選手達が練習しています。
頑張れ👊😆🎵
(札幌・小樽4時間観光Bコースでは大倉山キャンプ台or札幌チョコレートファクトリー・白い恋人パークのどちらかの見学になります。)
小樽運河
大正12年、9ヵ年かけて埋め立てて完成したもので、小樽の全盛時代には、海と陸をつなぐパイプ役として、大きな使命を果たしていました。
しかし、今では、港の近代化と、荷役の機械化によって、その役目も終わり、周りの石造倉庫とともに、当時の面影を伝えております。
昭和41年に浮上した小樽運河の埋め立て問題は10数年の長い間、小樽の議会や市民、文化や歴史を主ずる人々の集団によって討議が続けられ、昭和55年半分埋め立てをして半分を保存するという都市計画が決定されました。
計画にそって工事は進められ、完成を見たのは昭和61年4月で、南側の運河・延長650mを幅20mに埋め立てられ、6車線の道道臨港線と散策路が建設されました。
やがて一般に公開されることによって、小樽運河周辺に観光客が急増し、夜は散策路に設置されたガス灯の淡い光を楽しみながら、散策する人が増えて来ました。
小樽市は北側の運河も道路拡張や散策路を設けるため、一部埋め立てる予定でしたが、全面的に取り止めととし、平成2年南側と同じ様に散策路やガス灯を設置し、南北延長1140mの散策路お目見えしました。
全面保存か埋め立てかで全国的な論争を呼んだ小樽運河は、小樽のアピールに大きくつながり、「ウォーターフロント小樽」としての活気を取り戻し、ここ2年~3年は500万人以上の観光客が小樽を訪ねております。
都はるみさんの歌う「小樽運河」の曲は懐かしい時代を偲ばせるノスタルジックな歌廻しと、今流行のセピア色が色めき立つムードが、そこ此処に感じさせてくれる素敵な歌です。
精進おとしの 酒をのみ
別の生き方 あったねとー
四十路半ばの 秋が逝き
セピア色した 雨が降る
イエスタディを 聴きながら
二人歩いた あァ小樽運河
小樽北一硝子三号館
木村圓吉、天保元(1830)年青森県東津軽郡一本木村字大泊出身の大工木村円太郎が始祖。弘化3(1846)年から春になると北海道の増毛で刺網によるニシン漁を営み、漁期が過ぎると青森に帰ってました。
5代目圓吉は幼名百太郎と称し、福島の漁家花田伝七の三男で明治25(1892)年22歳の時に木村円太郎の孫娘ミヤの婿養子になりました。
仲人は漁家の金澤友次郎でした。
ヤマシメ木村は明治24(1891)年に小樽に本拠を移しています。
現在の北一ガラス三号館の倉庫は旧木村倉庫で明治24(1891)年に建てられています。
廻船問屋として積荷の米、味噌、縄、むしろ、食料品などを保管しました。
また明治後期には、漁場の大漁にも恵まれ、儲けた金で小樽はもとより道内各地の土地を買い占めて行きます。
大正9(1920)年に道庁が50町歩以上の大地主を調査した時、小樽には山田吉兵衛ら6人いたうちの筆頭が木村圓吉でした。
本業の水産業では最終的に22ヶ統の網元になりか、道内鰊漁獲高50万石の1割、50000石を取る最大の網元であり、450人の漁夫を使っていました。
6代目圓吉は四男で、小樽にフェリーを誘致したのは小樽商工会議所会頭の頃です。
北一硝子
オランダやデンマークなどで集めた、600点のランプをはじめ、食器、ガラス工芸など、1万6000点が展示されています。
もちろん、オリジナル商品もたくさんあります。
小樽では、レトロブームということから、古い建物を利用した、ホテルやレストラン、あるいは土産物店があちこちに建てられていますが、北一ガラスは、その草分けとも言える観光名所になっています。
北海道の方言
北海道の方言についてお話いたしましょう。
「言葉はお国の手形」とかいいますが、言葉には、生まれ育った土地のナマリや特徴があり、その人の故郷がわかるようです。
北海道には明治の初め、東北はもちろん、日本各地から大勢の人たちが移り住み、それぞれ出身地の言葉で話していました。
しかし、言葉がちがうと気持ちの通じないことも多く、月日を重ねるごとに、次第にお国言葉は姿を消して、標準語に近い、北海道の共通ごが生まれたのです。
標準語に近いとは言っても、北海道の風土に育った言葉も残っておりますので、いくつかご紹介致します。
代表的なものに「シバレル」という言葉があります。
「今朝はシバレルねー」とか「水道がシバレル」などと、きびしい寒さのことを表現します。
気温がマイナス10度~20度にもなりますと、「寒い」とか「凍る」などといった言葉ではいいつくせないのです。
また、「気持ちが良い」とか「ゆったりする」という意味で「アズマシ」という言葉があります。
旅行などから戻ってきて「あぁ我家はアズマシイね」とか、乗り物に乗ったとき、気づかいをせずに、スムーズに座れた場合には「アズマシク座れるね」などといいます。
そのほか、夢中になって何かを行うことを「ハッチャキになる」、物を交換することを「バクル」、徒競走などの最下位を「ゲレッパ」、捨てるを「なげる」など、本州のお客様にはわからない言葉も結構あるようです。
言葉は同じですが、意味や使い方がちがうものもあります。
北海道では疲れたときに「あぁ、コワイ」といいますし、手袋をハメルのを「手袋をハク」といいます。
このほか、シシャモ(柳葉魚)、マキリ(小刀)、トッカリ(アザラシ)、チップ(ヒメマス)など、アイヌ語がそのまま使われたり、明治の初め、外国から入ってきた「プラオ」「サイロ」などの外来語が今なお残っております。